「首狩り族」と呼ばれた人々
「ダヤック」と検索フォームに打ち込むと、まず目に飛び込んでくるのは「首狩り」のキーワードである。ダヤック族の首狩り文化は、なかなか人々の関心を引くようだ。未開を連想させるその響きは、冒険好きやオカルト好きであれば、たしかにそそられるものがあるかもしれない。
この「首狩り族ダヤック」の話題は一貫して、2001年に激化した民族紛争(先住民ダヤック対移住民マドゥラ)が引き合いに出されていた。当時ダヤック族がマドゥラ人に対して行った残忍な虐殺が注目をあつめ、「かつての首狩り文化の復活」と謳われたのだった。
じっさいのところ、ダヤックに人間の首を狩る風習があったのは事実で、はじまりは1000年以上遡る。しかし今ではその「首狩り」、すっかり消え去ってしまった。首狩り文化の消失には、かつて20世紀前後にオランダがおこなった植民地政策や、キリスト教の布教が絡んでいるらしい。
大戦中、日本軍がボルネオに侵攻した当時、すでに首狩りはなくなっていたというが、日本軍はダヤックを人喰い人種と信じてひたすらに恐れたのだそうだ。見つけ次第に殺さないと、自分たちが殺され食べられてしまうと考えられていたという。
画像引用:住居の垂木に吊るされた頭蓋骨 (Pic:Ms.Joanne Lane)
"Enjoying the hospitality of headhunters in Borneo" By Ms.Joanne Lane
※画像よりリンク
その昔、共同長屋の軒下や周辺の木には、戦いの成果−−人間の髑髏がいくつも吊るしてあった(集落によっては、安置するための特別の部屋があったとも)というが、それもキリスト教が広まるとともに多くは失われてしまった。その後も伝統的な信仰を貫いた人々によって一部は残されたものの、結局マレーシアとインドネシアの国境紛争の間に、インドネシア軍によってすべて処分されてしまったそうだ。サラワク州(マレーシア)には、まだいくらか古い頭蓋骨が残るとも聞くが、いずれにせよ、首狩りの風習そのものはとうに昔話なのだ。
そんな首狩りの昔話を、もうすこしばかり掘り下げてみようと思う。
ダヤックの人々はなぜ首狩りの風習を持ち、それにはどのような意味があったのだろうか。
第一に、彼らにとって人間の首は勝利を示すもの、強さの象徴であったようだ。首を狩ることで相手の力を得られるという考え方も存在したという。また豊作や健康、幸運をもたらす神聖なものとしても扱われ、出生の儀式や葬式においても重要であった。
女性たちからの熱い視線を集めたのも、首を持ち帰った男性である。首を狩れば狩るほどモテたのだそうだ。ダヤックの一部族、ムルット族の話では、結婚式には必ず生首が必要とされ、男性が首を持ち帰ることでやっと祝宴が始められたというし、ドゥスン族では娘を嫁に出す際、富の象徴として骨瓶を持たせたという。
しかしどんな考え方や信仰があったといってもそれは、今よりずっと頻繁に戦いが行われ、人間の死に対する価値観も今の私たちとは必ずしも重ならないことを念頭に置かねばならない。
昔の森は、無法地帯である。統一された規則や倫理などなく、各々が自分たちの道理に従うしかなかった。もしかしたら、部族間に共通の言語を持たない彼らでは、互いに言葉を介してのコミュニケーションさえも難しかったかもしれない。豊かな土地を求めて移動すれば、おなじように生活の場を探し歩く別の集団に行き当たっただろう。そういう場合には、きっと今のように話し合って解決するではなく、戦うのが普通だったのだ。昔はたとえおなじ種族であろうと、知らない一団に出会えば、出会い頭に戦いが始まったというぐらいだ。集団と集団の間には、相当の緊張感があったはずである。
数あるダヤックの種族の中でも、戦に強かったことで有名なのはイバン族だ。マハカム川源流域の話では、サラワク地域(現在のマレーシア側にあり、マハカム地域との間には高山が連なる)から分水嶺を越えて何度もやってきたというイバン族は、一団2000人にもなる大部隊で侵攻しては、以前から住んでいた人々に対して徹底的な殺戮を行ったという。
その強さはよく知られ、他のダヤック族はイバンと出くわすことをひときわ恐れたのだそうだ。昔のダヤックは入れ墨の風習があったことで知られるが、当時のイバンは人を殺すたびに手の甲の入れ墨をふやしていったという。
現地ボルネオでは、マハック・バル村のお父さんが首狩りにまつわる話をしてくれた。
「昔は見知らぬ人間がやってきたら、ごちそうをたらふく食わせて安心させてから、夜に襲って首をちょん切ったんだ。」
話を聞いたのはちょうど、野外で夕食をもりもり口に運んでいた最中だった。夜も更けはじめた頃、背後の森の闇と静けさを一層深く感じた。ランタンで照らし出されるお父さんの顔。首狩りなどもうないとわかってはいたけれど、一瞬、背中がうすら寒くなった。
さて、ずいぶんと血なまぐさい話をしてしまったかもしれない。
さいしょの話題に戻るが、わたしはマドゥラ人との争いが当時どのように騒がれたのかはよく知らない。あまり参考になる資料も見当たらなかったが、いくつかの記事に目を通しただけでも、両者の対立が相当深刻であったことがうかがえた。
この事件に関する記述は、どれもダヤック人の常軌を逸した残忍な殺し方がピックアップされている。それは、かつてのダヤックの首狩りやアニミズムを思い起こさせるようなものだ。そして彼らは、「黒魔術」や「人喰い」といった言葉とともにメディアに登場することとなった。
しかし、わたしは彼らの本能がそういう殺しを強いたのだとは思わない。彼らはあえて、ダヤックとして、そういう戦い方を選んだのではないかと思う。彼らの歴史のはじまりからあるボルネオ島、そこに新たに入ってきた人々との対立の中で、アイデンティティを振りかざしたのではないかと思う。だが世界の目にそれがどう映ったか、ということである。
わたしはそうしたダヤックの過去を肯定するつもりは全くないし、好きだからといって変に目を瞑るつもりもない。それでも彼らダヤック族の歴史や精神を知る上で欠かすことのできない首狩りの風習が、ただただ「残忍な蛮行」としてかたづけられてしまうのは残念に思う。
すでに消えてしまったダヤックの「首狩り」。
これから先どのようなかたちで、彼らのその文化は語り継がれてゆくのだろうか。
参考:『熱帯雨林の生活』井上 真、『湧き上がる雲の下で ボルネオの自然と暮らし』高畑 滋、『ボルネオ島最奥地をゆく』安間 繁樹、『失われゆく民俗の記録』安間 繁樹
“Beheading: A Dayak ritual”. BBC.February 23, 2001
”Horrors of Borneo massacre emerge”.BBC.February 27, 2001
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